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サクセスリポート  

■丹後和紙 田中製紙工業所
〒620-0324 京都府福知山市大江町二俣1321
TEL:0773‐56‐0743

 舞鶴市に近い京都府北部に位置する大江町に5代続く和紙の老舗、
田中製紙工業所がある。機械化の波におされ、多くあった丹後和紙の
製造元が消えていく中、なぜ同社は今へと継承することができたのか。同社の歩みから、その答えを探した。
 
 
 現在73歳の田中正晃氏が4代目を、そして息子の敏弘氏が5代目を継ぐ田中製紙工業所。その歴史は古く、150年も前から、手漉きの和紙づくりを続けてきた。原料は地元で獲れる楮のみを使い一枚一枚丁寧に手漉きし、染めや加工などの作業を家族4人で分業している。生産性を求め海外の材料を使うことが増えている中、これほど材料にこだわり純粋な上質の和紙を作り続けているところは日本でも少ない。100年前に大江町に数多く存在した丹後和紙の製造元も今では田中製紙工業所のただ一件のみである。
 
 正晃氏は、20歳の頃に家業を継ぐため、和紙の世界に入った。当初は主に障子紙を製作していたのだが、業界に機械化の波が訪れ、存続が危ぶまれた。『このままではいかんとなりましてね。機械漉きにはできない和紙をと研究を重ね、漆こし紙ができたんですわ。』と正晃氏は話す。漆こし紙は、名の通り漆を濾し不純物を取り除く和紙である。漆はキメが細かいだけでは、濾すことができず、反対にキメが粗ければ、不純物を取り除くことができない。機械漉きにはできない微妙な感覚と技術、材料で作るこの和紙の開発と製作に成功した事で、経営を軌道に乗せることができた。
 

 漆こし紙により『この先は安心だ』そう思ったのも束の間、再び危機が訪れる。機械の技術が手漉きの技術に追いつき、また障子からガラス戸へ移るなどの住宅事情の変化により、和紙の需要は減るばかりだったのだ。そんな時、懇意にしていた人から京都の老舗を集めた『京都のれん会』へ誘われ、全国の百貨店をまわることに。このことが大きな転機となる。直接お客さんと触れ合う機会が増えたことで、和紙の良さを直に伝えることができ、同時に、お客さんの求める商品を知ることができたのだ。そしてこの頃から、はがきや便箋、書道用紙など一般消費者に向けた小物類の製作を始め、色付きの和紙などは工芸用としても人気を呼んでいる。百貨店の行脚は、和紙づくりにおいて新たな道の発見となり、丹後和紙の知名度を全国へ広げる成功にも繋がった。

 
 伝統産業は、手間隙かけて製作するゆえに機械での大量生産に比べ、価格で負けてしまうことも事実である。和紙も同様に、機械漉きの和紙が出回る中、手漉きの和紙は不利なのでは?という疑問が湧く。その問いに敏弘氏は答えてくれた。
「機械漉きの和紙はたしかに安い。しかし手漉きと材料にこだわり続けた丹後和紙にしかだせない風合いがあります。そして、これまでとは違う表面の模様や表情、またタペストリーとしての使い方など、様々な提案をしています。安さには、本物だけの持ち味で勝負しています。150年続いてこれたのは、生産性や材料の安さに走らず、本物にこだわり、信念を守り抜いたからです。本物の良さは必ず伝わります。」
 
 最後に実際に和紙を漉く作業を見せてもらった。そこは、竹のしなりを利用した和紙を漉くしかけがあり、材料も全て、150年前と何一つ変わらない作業場であった。この場所で一枚一枚手作業で和紙を漉いていく。すると、おもむろにポトッポトッと水滴を紙の上に落とす意外な光景を目にした。
「昔だったらこんな事はタブーでした。けれど、これが模様になって人気があるんです。作り手の概念をいかに壊して和紙をつくるかが課題です。」
 
 「伝統産業を今の時代続けることは簡単じゃない。けれど、日本に残る本物を守っていきたい。」と話す正晃氏。そして次の世代に繋げる敏弘氏も「これからも、今までの基本は残していきます。その中で少しずつ工夫を重ね、夢は、本来の自然に近い紙を作ることですね。」と夢を語ってくれた。
機械にはできない暖かみある表情がある丹後和紙。目先の利益よりも、本物の良さを伝える田中製紙工業所こそ、失くしてはならない日本の財産だと感じた。

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